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ケープタウンの歴史 - 創設 [ケープタウン]

ヴァスコ・ダ・ガマが1498年に喜望峰回りの欧印航路を開発して以降、この地方は欧州と東洋とを結ぶ主要航路となっていたが、喜望峰沖は航海上の難所であるにもかかわらず、ポルトガル領のルアンダとソファラ間には補給港がなく、交通の障壁となっていた。このため、オランダの東インド会社がこの地域への補給港建設を計画し、同社に所属していたヤン・ファン・リーベックが1652年にテーブル湾南岸の、現在のケープタウン中心部に入植し、ケープタウン市を建設した。
ケープタウン周辺では熱帯原産のバントゥー系の主食作物は生育できなかったため、この地方に居住していたのは牧畜民であるコイコイ人だった。彼らは食料生産力が低いため人口が少なく戦闘力も低かったため、入植者たちにすぐに追われ、ケープタウンは安全に成長することができるようになった。この地への入植を決定した東インド会社首脳部は、この地に補給港以上のものをつくろうとは考えておらず、利益を考慮しない代わりに損害も少なくするため、できる限り放任する姿勢をとった。入植者たちの一部は自由農民となり、ケープタウン及びその周辺で農耕や牧畜を開始した。入植者は会社によって1707年までは無料で輸送され、次々とこの地に入植していった。入植者たちにはオランダ人のほか、ナントの勅令の廃止によってフランスを追われたユグノーたちもおり、彼らはケープタウン近郊に入植してワイン作りを始めた。1679年には第10代ケープ植民地総督シモン・ファン・デル・ステルが内陸部のステレンボッシュに居留地を作り、以後ケープ植民地はケープタウン市のみの植民地から面的な広がりを持つようになった。
18世紀には、ケープタウンは補給基地の枠を超えて成長を続けるようになった。ケープタウンの港には欧印航路の商船が立ちよるようになり、彼らを相手とする商人層が成長し、一部のものは富を蓄え富裕層となっていった。農民は独立自営農民として各地に巨大な農園を構え、奴隷を使用しながら大規模農業を営むようになった。この2者と商船を顧客とする職人層も出現した。農民層の一部はケープタウン市から遠くはなれた内陸部で牧畜を営むようになり、トレックボーアと呼ばれるようになったが、彼らの生産品はケープタウンで売られ、必需品もケープタウン商人が供給しており、ケープタウン経済から独立した存在ではなかった。18世紀末にはケープタウンの世帯数は1100戸に達していた。1778年には富を蓄えた都市商人と農民層がオランダ本国に代表団を送って政治的代表権と貿易の自由を要求したが、黙殺された。[2] 。

参照元:ウィキペディア「ケープタウン
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